「死ぬな。」

学生時代、先生に

「booはこだわりがないことがこだわりなんだろ」

と言われ、言葉の意味を理解するのに時間がかかって

はじめピンとこなかったんだけど

「あー!それはいい言い回しだな。」

と思った。

そんな「こだわりがない」私でも

人生で一つだけ

たった一つだけ、これは絶対に守る!!!!

と自分で決めている決めごとがある。

それは

「人生を途中でやめないこと」だ。

「死」から目をそらさない

誰しもが必ずいつか死ぬ。

100%死ぬ。

以前、がん専門病院で仕事をしていたときは、

毎日のように患者さんが亡くなっていった。

仕事するようになって

患者さんが亡くなったのを初めて知った時はショックというか

呆然とした。

昨日までお話してたのに。

先輩に「日常茶飯事だよ」と言われた。

そうなんだと思う。

実際、末期がん患者が来る緩和病棟は特に

それが日常だ。

でも、なんとなくそういわれたことに違和感を抱いた私は、

人の死を当たり前と思いたくなくて、

普通のことと思いたくなくて(実際、普通のことで、当たり前のことなんだけどね)

「死」を悲しいと思わなくなる、感覚が麻痺するようになるのが怖くて

患者さんが亡くなるたび

無理やりでも患者さんの人生を想像して

少ないヒントから想像して

誰かがなくなるたび、帰宅の道すがら、泣きながら車を運転して帰っていた。

ピュアな私でいたい、とかそんなんじゃなくて

「死」が悲しいものじゃなくなるのが

日常の中をただ通りすぎていくことが

怖かった。

「安楽死」という選択。

まえにNHKで安楽死を選んだ人が亡くなっていくとこを放送したのをたまたまみた。

その方は治らない病気で(病名忘れた)

自分の体も思うように動かなくなるし、自分の意志表示ができなくなっていく。

そのことが耐えられなかったんだったと思う。

あと、まわりの世話になってばかりになっていくこととか。

何度か自殺を図ったけど死に至ることはなく

最期の時を

「安楽死」という形で終わりにした。

自ら「死」を選んだんだ。

最期の最後まで自分の意志を貫き通す、その潔さを感じた。

その方を見送る家族は、最期のときにずっと

「ごめんね。」を繰り返し

見送られたその方は

「ありがとう。」を繰り返していた。

ほんとのほんとうに息を引き取るそのときまで。

家族の一人は、最後までその選択を許すことができず

見送りにも来なかった。

もう一方で、ちがう家族のことも放送されていて

その方は自分で話すことも動くこともできず寝たきり。

家族はそれでも生きていて欲しいと望んで、安楽死を選択しなかった。

どっちがいいとかじゃなくて

私ならどうするだろう?

と、

その番組をみてからしばらく考えた。

寿命が尽きるその時まで

私は、安楽死を選ばない。

家族がもし安楽死で最期を迎えたいと言っても引き留める。

どうしても安楽死以外の選択をしたくないと言われたら考えるけど

やっぱりどんな形になろうと、何が起ころうと

寿命が尽きる最期まで生きていたいし、生きていて欲しい。

安楽死を選択した人を否定するつもりは全くない。

NHKで見た方は本当に潔よかった。かっこよかった。

最期の最後まで”自分”であり続けるというその信念をみた。

素晴らしかった。

私がいうと薄っぺらく聞こえると思うけど、

本当に数年たった今でも

その最期の時の映像を覚えている。

点滴に薬が入った数十秒後(だったと思う)に

文字通り、ほんとうに息を引き取った。

すぅーっと、眠りにつくような最期だった。

なくなる前夜に、家族と本人が水で乾杯して

今までの思い出を語ったりして過ごすシーンもあったんだけど

私が本人の立場でも家族の立場でも

辛くて耐えられないと思った。

自分の最期を想像する

がん専門病院にいた頃

4人に一人はがんで亡くなるという話をきいたことと

がん患者は60歳から右肩上がりで増えるグラフをみたので

(私の頭の中のデータではそうなってる。実際の正確な情報は、グーグル先生に聞いてください)

「私は60歳でがんになって亡くなる。」

と、

そのころから勝手にそう思ってる。

そう想定して生きてる。

だからもう人生の折り返し地点は通過してる。

やりたくないことばかりやってる時間はないのだ。

私は時々、自分の最期の時を想像する。

余命幾ばくもない私は

病院のベッドにいて

お見舞いにきた家族に囲まれている。

泣き顔を見せては心配かけてしまう、泣いちゃだめだ。

と思うんだけど、想像するだけでも泣くんだから、実際の場面でもきっと泣いてしまう。

でも、それでも、最期、家族に伝えたいことは何かと考えると

やっぱり

「ありがとう。」

だ。

あと

「大丈夫。ママは大丈夫だから。

いっぱい笑って生きていってね。」

私が最期に家族に伝えたいことは何だろうと考えるとき

出てくるのはこんな言葉だ。

私が家族に伝えたいメッセージはこれなんだ。

60歳まで生きるかもわからない。

何歳まで生きるかもわからない。

だから、

普段からこのメッセージを

伝えておかなくては。

それは言葉だけではなく

モデルを示すことでも。

全ては、生きてこそ。

辛いことも

楽しいことも

悩みも

苦しみも

全ては生きていてこそ、だ。

「死」を選ぶことができるのも生きているからこそだ。

例え棒人間みたいになっても

生きていたいし生きていて欲しい。

人が死ぬのは、寿命が尽きるその時。

その時までどうか

這いつくばってでも

寝たきりでも

生きていて欲しい。

自殺は、自分を殺すこと。

本人にとってみれば

「死」を選択したという結果なのかもしれないけど

安楽死と自殺は

やっぱり違う気がしちゃうな。

少なくても私は

途中で人生をやめることは

自殺することだけは絶対にしない。

そう決めている。

生きていてこそ、だ。

みんな、死ぬな。

☆今日の1歩☆

死について考えることは、「生」について考えること。

逆算してどう生きていきたいか、

最期のときどうありたいか、

伝えたいことは何か、

忘れないように時々最期を想像するようにしています。

自分の最期、考えたことありますか?

明日もまた、楽しく生きます!!よろしく!

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